狩猟免許(罠)を取ったはいいものの、どうやって始めたらいいのかがわからない。
猟場って、どうやって探したらいいんだ?
自作の罠と、売っている罠、どっちがいいんだ?
作るとしたらどうやって、買うとしたらどこで。。。
もし仮に獲れたとしても、どこで捌こう?
持って帰るのも大変だし、そもそもひとりで捌けるのだろうか。。。
無限に疑問と不安が湧き出してくる。
散々悩んだ結果、
「よし、独りじゃ無理だ。人に訊こう」
と決心し、東京都猟友会に電話をした。
「東京は銃が多いけど、青梅の方で罠をやっている人がいるから、その人に連絡をとってみてください」
というわけで、訊き出した連絡先に電話をして、挨拶をして、悩みを相談したところ、
「ならとりあえず一回見に来なよ」
ということになった。
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東京都青梅市へ
レンタカーを借りて、渋滞にハマりながらなんとか青梅に到着した。
待ち合わせ場所に到着すると、そこには空飛ぶ家のカールじいさんみたいなおじさん(師匠と呼ぼう)と、アンガールズみたいにガリガリの青年(タナカと呼ぼう)がいた。
師匠はタナカに昨期から罠猟を教えているのだそうだ。
簡単な挨拶を済ませて、早速タナカの罠を見に行くことになった。
車でポイントの近くまで移動し、歩いて山に入っていく。
罠を仕掛ける場所は道路から見えるところがほとんどである。
あまりに深いところに仕掛けてしまうと、獲物がかかったときに下ろしてくるのが大変だし、毎日の罠の見回りをなるべく楽にしたいという事情もある。
青梅は都心よりも寒く感じたが、それも最初だけで、歩きにくい山の中を歩くうちにすぐに身体が暖まってくる。
最初の6箇所目までは何もかかっていなかった。
動物が触れたり、何かの事情で発動して空振りしている罠を設置し直す。
罠猟師にとってはできて当然の罠の設置も、素人の自分には新鮮な作業として映った。
広大な森の中のどこに、どうやって仕掛ければ獲物がかかるのか。
今回少し見たぐらいでは、どのような理屈で罠を仕掛けているのか、ほんの一部しかわからなかった。
もし今期ひとりで罠を設置しても、恐らくかけることは難しいだろう、と実際に見たことによって肌で感じることとなった。
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罠にかかっていた獲物は。。。
7箇所目の罠。
獲物がかかっていた。
タヌキである。
通常タヌキはくくり罠で狙う獲物ではなく、罠にはかからない。
罠が発動するには体重が軽すぎるからだ。
今回は恐らく、斜面から飛び降りたことで体重の不足分が補われて罠が発動してしまったのだと思われる。
「どうしましょう。ナイフでいったらいいですか?」
タナカは初めてのタヌキにどう立ち向かえばいいのかわからないようだ。
「棒で頭殴ったら死ぬよ」
師匠は持っていた棒をタナカに手渡す。
ケープ(整髪剤の)を1mぐらい伸ばしたような(わかりにくいか)、それほど大きくない棒である。
師匠は猟の仲間に報告するため、止め刺しシーンの動画の撮影を始めた。
タヌキは危険を察知して、倒木の陰に隠れている。
そのタヌキをタナカが叩こうとするが上手く叩けず、木を叩いてしまう。
棒の先が折れた。
師匠はタヌキの脚につながっている罠のワイヤーを引っ張って叩きやすい場所にタヌキを移動させた。
タナカが少し短くなった棒で再びタヌキの頭を狙う。
コツッという軽い音がした。
倒木を叩いたときと同じような音だ。
実際、僕はまた倒木に棒が当たってしまっていると思ったのだ。
しかし、それがタヌキを殴ったときの音だった。
タナカが棒を振り下ろす度に何度も同じ音は続く。
コツッ、コツッ、コツッ、コツッ、コツッ、コツッ、、、
タナカは何度も何度も殴り続ける。
途中でまた棒が折れても殴り続ける。
木魚のようだと思った。
木魚は中空だから音はもっと響くが、タヌキの頭蓋骨には中身が詰まっているから響かない。
だがそのように感じた。
これが殺そうとして頭を殴ったときのリアルな音なのだ。
タヌキの動きが鈍くなった。
鼻から血を流している。
もう動かない。
「死んだか」
と言って、師匠は動画撮影を止め、タヌキに近づく。
「タヌキは死んだふりすっからなぁ」
と言いながら足でタヌキを軽く蹴る。
タヌキが少し動いた。
「コイツまだ生きとるな」
師匠はタナカから棒を受け取り、タヌキの頭を叩く。
コツコツコツコツコツコツコツ。
どのタイミングで息絶えたのかわからないが、師匠が叩くをやめたとき、タヌキは死んでいた。
タヌキを罠から外し、持ってきた袋に入れる。
ビニールの繊維を編んだような袋から血がにじむ。
その血の跡が、その袋の中には死んだ動物が入っている、ということを生々しく感じさせるのだった。
狩猟は残酷な趣味なのか
「タヌキ汁にしたら旨いぞぅ」
タヌキを捌いたことがないタナカに代わって、師匠がタヌキを捌く。
タヌキの喉元からナイフを入れてお腹を開く。
皮と肉の間にある脂肪の部分にナイフを入れて剥がしていくイメージだ。
止め刺しシーンは目を背けたくなる衝撃があったが、皮剥ぎシーンに関しては驚くほど無感動だった。
命があるか、ないかというのは、やはり大きい。
ここまで書きながら、書いている僕自身が当時の光景を思い出して「かわいそう」と思ってしまった。
しかし「かわいそう」というのは偽善だと、僕は思う。
いや、「かわいそう」まではギリギリいいとしても、「そんなかわいそうなことするな」とか「殺すなんて酷い」は明らかにオカシイ。
人を含め、動物は、他の生き物の命を食べてしか生きられない。
自分の手で殺したことがないだけであって、野菜も、魚も、肉も、命あるものを食べずに生きている人などいない。
自分が知らないところで他の人が殺した生き物を食べている。
だから「かわいそう、なんて言ってないで、いただきます、って言ってから飯食えよ」と思うのだ。
食卓で目の前にしている「命」に対して、心から感謝の気持ちをもって「いただきます」と思えること、そういう気持ちを思い出させてくれること、これが猟をやる意味だと、僕は考える。
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