トップの画像は小豆餅(あずきもち)です。
とても美味しそうです。
ところで、
静岡県浜松市に、
「小豆餅(あずきもち)」
という地名があることをご存じでしょうか。
変った地名ですよね。
私は仕事柄、全国の地図を見るので、
浜松市に小豆餅という地名があることは
以前から知っていたのですが、
「変わった地名だなー」
と思ったぐらいで、
それ以上突っ込んで調べたりはしませんでした。
調べたりはしなかったのですが、
最近たまたま読んだ本にこの地名の由来が載っていて、
その由来が想像もしていなかった面白い由来でした!
そういうわけで、
「小豆餅」という変った地名の由来について、
本の内容と追加で調べた内容を紹介したいと思います!
ちなみに、
小豆餅という地名の由来について書いてあった本とは、
『武士の家計簿』で有名な歴史学者、
磯田道史さんの『日本史の内幕』という本です。
磯田さんが古文書から読み解いた、
教科書には載っていない歴史の裏側についてまとめている
面白い本です。
読みやすいので是非読んでみてください。
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小豆餅と徳川家康
突然ですが、
「小豆餅」という地名の由来について語るには、
「三方ヶ原の戦い」について、
簡単に知っておいていただく必要があります。
三方ヶ原の戦いとは?
1573年1月25日、
三方ヶ原の戦いが起こりました。
この戦いが起こった場所、三方ヶ原は、
現在で言うと、
静岡県浜松市北区三方原町近辺に当たります。
三方ヶ原の戦いは、
武田信玄と徳川家康(+織田信長の援軍)
との間で行われた戦いです。
武田軍の圧勝で終わりましたが、
徳川家康はなんとか浜松城まで逃げ帰ることができました。
「小豆餅」という地名は、
この三方ヶ原の戦いで敗れた徳川家康の
敗走中のエピソードが元になっています。
小豆餅という地名の由来は?
三方ヶ原の戦いに敗れた徳川家康は、
浜松城まで12kmほどの距離を命からがら逃げ帰りました。
その途中、
お腹が空いた家康は、
我慢できずに茶屋に寄り、
老婆から小豆餅を買って食べ始めました。
しかし、
食べている途中で、
追ってきた武田軍が、
家康がいる茶屋まで迫ってきてしまいます。
焦った家康は、
小豆餅の代金を支払わずに、
すぐに馬に乗って逃げ始めました。
そんな家康を、
老婆は必死に追いかけ、
なんと追い付いて、家康から銭を取ったのです。
このエピソードから、
家康が小豆餅を食べたところが「小豆餅」、
老婆が家康から銭をとったところが「銭取」として、
現在も地名に残っています。
「小豆餅」は、
「静岡県浜松市中区小豆餅」として残っていますが、
「銭取」は、
静岡県浜松市中区和合町にある
バス停の名前として残っているのみです。
ちなみに、
小豆餅から銭取までの距離は、
およそ6kmです。
家康に追いついた老婆、恐るべし。。。
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もうひとつの小豆餅のエピソード
『日本史の内幕』に書いてあった
「小豆餅」に関するエピソードは、
先に紹介したものでした。
ただ、
武田軍から逃げている途中の家康が
のんびり小豆餅を食べていたり、
馬に乗って逃げた家康を、
老婆が6km先で捕まえて銭を取ったり、
エピソードとしては面白いですが、
実際にあったのかどうかを冷静に考えてみると、
ちょっと無理があるように思えてきます。
そこで、
「小豆餅」という地名の由来を、
もうひとつ紹介しておきましょう。
こちらは、
『浜松風土記』という書物に書かれているエピソードです。
浜松城主の堀尾忠氏の弟、高階晴久という人が
三方ヶ原に立ち寄ったときのことです。
茶屋で小豆餅を食べたところ、
次々と奇怪なことが起こり、
恐怖した彼は、
急いで店を飛び出し、
町まで逃げ帰りました。
その次の日、
彼が前の日に恐怖体験をした茶屋に行くと、
そこには茶屋などなく、
三方ヶ原の戦いで戦死した者の白骨が
大野原一面に散乱していたのです。
彼は、
その骨をかき集めて焚いて埋め、
小豆餅を供えて供養しました。
『浜松風土記』に書かれているこのエピソードが、
「小豆餅」という地名の由来に関するもうひとつの説です。
おわりに
地名を紐解いていくことは、面白いですよね。
普段当たり前に目にしている地名にも、
その土地の歴史が潜んでいます。
今回調べた「小豆餅」の由来の本当のところはわかりませんが、
このような伝承があるということを知るだけでも
ワクワクします。
ちなみに、
浜松市中区小豆餅には、
実際に小豆餅を出しているお店があります。
美味です。
近くに行くことがあれば、
是非立寄ってみてください。
そのときには、
どんなに急いでいても、
お金を払うことは忘れないよう、お気を付けください。
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